新火力発電で東芝のことを書きましたが……

●前回の記事では触れませんでしたが、東芝について一言書かずにはいられません。日本の原発の開発・設計の主要な受注者である東芝ですが(日立など他の企業も同様)、今回の原発事故に関して批判の矢はあまり向けられなかったような気がします。政府と東電の姿勢があまりにひどかったことと、原発そのものの危険性が衝撃的だったせいで目立ったなかったのでしょうか。原子力ムラの利権構造がいまだに温存されていることと、コスト優先の企業活動に対する世論の甘さも原因ではないかと思います。

 

●東芝の元社員がネットで告発していました。会社(東芝)がアメリカのスリーマイル原発事故を受けて、放射性物質ごと大気に放出する弁をつけようとしたことに対し、フランスのように放射能物質が漏れにくい巨大なフィルター付き格納容器が必要と訴えが、採用されなかった。原因はコストだな、と思ったと元社員が言っています。

ネットでは、日立の元社員の告発などもありました。マスコミがまともに扱わなかったために、ネットで普及するしかなかったそうです。 

 

●社員の指摘を無視し、冷笑し、さらに告発などに対して口をつぐむ東芝など原子力企業。そこからの反省の弁はいまだ聞いたことはないような気がします。どこかでありました? コスト優先のもと、設計段階で確保できたはずの安全対策がどれだけなおざりになったかは、もっと検証され、責任追及されてよいのではないかと思います。

 

●日本原子力産業協会理事の服部拓也氏は「40年以上にわたって原発の建設はとだえることがなかった」「日本の原発を海外に」と書いています(2010年12月・東芝レビュー)。それだけの利益を享受してきて責任を問われず、何食わぬ顔で次は新火力発電へ……。納得できないものを感じます…。

一方の告発した元社員たちは、自分の力が足りなかったことに悔いを抱えての告発でした。

軍拡の是非を問う議論と離れたところで黙々と利益をむさぼる軍需産業界と、構図はまったく同じではないでしょうか。

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コメント: 1
  • #1

    クマ罰 (木曜日, 21 6月 2012 18:36)

    少し古いですが、感心した情報がありましたので送ります。

    全日本仏教会のホームページからの転載です。

    宣言文

    原子力発電によらない生き方を求めて

    東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。
    広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。

    日本は原子爆弾による世界で唯一の被爆国であります。多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射線による被曝で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」の尊さを世界の人々に伝え続けています。

    全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。

    私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。
    そして、私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言いたします。

       2011(平成23)年12月1日

    財団法人 全日本仏教会