「敗戦の日」……何が敗北したのか?

●きょうは「終戦記念日」。67年前のきょう、昭和天皇がポツダム宣言の受諾と軍の降伏を決めたことをラジオで公表し、9月2日に米軍艦ミズーリ号上で日本政府が降伏文書に調印して正式に日本の敗北で終戦となりました。

アメリカやイギリス、フランスなどは9月2日を「対日戦勝記念日」としていますし、9月3日をロシアは「対日戦勝記念日」、中国は「抗日戦争勝利の日」としており、韓国や北朝鮮は8月15日をそれぞれ「光復節」「祖国解放記念日」としています。

 

●いつ頃からか、8月15日を「終戦の日」というのはおかしい、「敗戦の日」ではないかという声が高まり、最近は「敗戦記念日」という言い方も増えてきました。でも、私はなんとなく違和感を持つのです。

8月15日の「玉音放送」を聞いて、「日本は負けたのだ」とがっくり力を落とした国民もいるでしょう。「ああ、やっと戦争が終わったのだ」とホッとした国民もいるでしょう。「何のために死の覚悟をしたのだ、させたのだ」と悩みを抱えた国民もいたと思います。反戦主義者として監獄に囚われていた政治犯などは「俺たちが勝ったのだ」と思ったかもしれません。

「敗戦の日」という呼び方をするのであれば、誰があるいは何が戦争に負けたのかをはっきりさせるべきだと思うのです。そこがなんだかあいまいで、国民にとっての記念日が「敗戦の日」であれば、「一億総懺悔」と同じではないか、と感じるのです。

 

●だから、「敗戦の日」と言うならば、「日本帝国主義が敗北した日」と言ってほしい。大半の国民が帝国主義の遂行に力を貸した経緯はありますが、それでも、国民は政府の起こした戦争の被害者であり、国民にとっては「終戦の日」というのが実感ではないかと思います。国民が「聖戦」の嘘を見抜けなかった経緯は歴史から学んで現在の社会に生かしていくことだと思います。まさに、いまの原発事故の問題にも通じるのではないでしょうか。

 

●それにしても、戦争体験者、特に軍隊経験者がどんどん少なくなっています。この先、戦争の生の体験を聞く機会が子供たちにはなくなってしまう。そうであれば私たちが、古代の部族たちが子々孫々に先祖の物語を語り継いだように、子や孫に語り継がなくてはなりませんね。

そんな心配をしていたら、東京北区を拠点に「戦場体験放映保存の会」というNPOが、「戦場体験史料館・電子版」というサイトを開設したことを知りました。同会は3年をかけて全国をキャラバンし、2・26事件から日中戦争、太平洋戦争、シベリア抑留などの戦場体験の証言を映像に収録するという活動をしているそうです。今年が最終年。これまでの映像をインターネットで見られるようにしたとのことで、大変な労力を投入された会の皆さんに感謝です。