どうして市民感覚と真逆になっちゃうのか?

●原発は事故のリスクだけじゃない。いまもテレビで(NHK)やっているけど、原発があるだけで放射性廃棄物はどんどん増える。地層に隔離するんだなんていう計画も、結局は、日本の下に安全な地層などないということらしい。

存在そのものが地球規模で命と環境に相反する原発。

福島原発はいまだに掌握できておらず危機的状況は続く。

原発ゴミをどう始末していいかも分からないくせに、原発をまた再起動させようという。

それはすべて経済という理由に丸め込まれる。

けど、この負の財産に匹敵する経済的利益なんてあり得ない。自然や環境に対して謙虚であろうとするなら、それが普通の市民感覚ではないだろうか。いや、生きものとしての感覚?

 

●オスプレイがとうとう沖縄の普天間基地に飛んできた。

幼稚園や学校や住宅が密集する暮しの上を、我が物顔で飛ぶのだろう。

「米軍が事前通告を守ったことなどない」という地元の声が痛ましい。ルートなど、あってないようなものだ。

日本の上空を自由に飛ぶアメリカに、日本の主権が及ばない。そもそも、日本の主権を行使すべる政府が主権を放棄しているのだ。沖縄県民の気持ちはそういうことだろう。

これも市民感覚からは理解できない政治の一つだ。

 

●市民感覚の前に立ちふさがって、市民の願いと真逆の政治の推進力となる「経済」と「米軍」は、本当に市民の我等の為になる「経済」と「米軍」なのか? 我等の為のものなら、これほど我等を苦しめることはしないと思うのが市民感覚だと思うのだけど……。

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コメント: 2
  • #1

    山人にも臍のくくり (水曜日, 03 10月 2012 18:22)

    オスプレイも原発も、上越に置き換えたら、どういうことになるんでしょう?・・・やっぱり他人ごとにして思考停止なっていないでしょうか? 福島も沖縄もわが身とする・・・イマジン

  • #2

    クララ (水曜日, 03 10月 2012 23:47)

    「市民感覚」が一枚岩ではないからでしょう。「原発反対」「日米同盟反対」という「市民感覚」の人もいれば、町工場その他零細企業従事者の「原発止まって電気料金が上がったらたまらん」も「市民感覚」だし、暴れる中国人をテレビでみて「やっぱり抑止力も必要だよね」と考えるのも「市民感覚」。こういう市民感覚は草の根的で、「震災ガレキ搬入反対」的な派手なパフォーマンスはしないけれども、根強く張ってますから。こういう「声は小さいけれども草の根保守的市民感覚」をどう説得するかが課題なのでしょう。