斎藤真一展が開催中……瞽女唄「葛の葉子別れ」のこと

斎藤真一の瞽女作品展
斎藤真一の瞽女作品展

●画家斎藤真一の描いた瞽女絵の企画展が、23日から上越市立総合博物館で始まりました。斎藤真一の瞽女の絵に感銘を受けた池田敏章さんが半生をかけてコレクトした作品を市に寄贈してくださったものです。戒律を守りながら年がら年中村々を渡り歩いた瞽女の強さ、悲しさ、執念がこめられているような絵です。世界に二つとない瞽女の絵でしょう。

 

●ここ数年、高田瞽女の文化を保存・発信する会(http://www.takadagoze.info/

が高田世界館や高田小町を中心にイベントを続けてこられましたので、瞽女のことを知ったり、瞽女唄を聞く機会がありました。そこで必ずといっていいほど聴くのが、「葛の葉子別れ」という段ものでした。昔から伝わる「葛の葉」という狐の伝説の「子別れ」の場面を唄ったもので、代表的な瞽女唄だそうです。

 

●伝説の狐というのは信太(しのだ)の森の白狐のことで、人間に化身し、命を助けてくれた安部保名の妻になり、童子丸という子を生みます。童子丸が5歳になった年、本物の妻が現れました。狐は森へ帰ろうと決心します。童子丸が眠っている寝間へ行き、わが子を抱きしめて葛の葉が嘆きます……。

 

さらばによりてこれに又
いずれにおろかはあらなども
もののあわれをたずぬるに
しゅじなるりやくをたずぬるに
なに新作もなきゆえに
葛の葉姫の哀れさを
あらあらよみあげたてまつる

 

夫に別れ子に分かれ
もとの信太へ帰らんと
心の内に思えども
いて待てしばしわが心
今生の名残りに今一度

 

童子に乳房を含ませて
それより信太へ帰らんと
保名の寝つきをうかごうて
さしあし抜き足忍び足
我が子の寝間へと急がるる

 

我が子の寝間にもなりぬれば
目をさましゃいの童子丸
なんぼ頑是がなきとても
母の云うをよくもきけ

そちを生みなすこの母がにんげんかえと思うかえ
まことは信太にすみかなす
春欄菊の花を迷わする
千年近き狐ぞえ

 

さあさりながら童子丸
あの石川の赤右衛門
常平殿に狩り出され
命危なき場所なり
その時この家の保名様
我に情けをかけたもう

 

我に情けをかけたもう
多勢な人を相手にし
ややひとしくと戦えば
自ら命を助かりて
そのまま御恩を送らんと

 

葛の葉姫の仮姿
これで添うたは六年余
月日を送るその内に
二世の契りを結びしぞえ
つい懐胎の身となりて

 

月日を満ちて臨月に
生んだるそなたもはや五つ
我は畜生のみなるぞえ
今日は信太へ帰ろうか
明日はこの家を出よかと

 

思いしことは度々あれど
もっといたならこの童子
笑うかはうか歩むかと
そちに心を魅かされて
思わず五年暮らしける

 

葛の葉姫はその時に
なれど思えばあさましや
年月つつみしかいも無く
今日はいかなる悪日ぞえ
我が身の化様現れて

 

母は信太へ帰るぞえ
母は信太へ帰りても
今に真の葛の葉姫がお出ぞえ
葛の葉姫がお出でても
必ず継母と思うなよ

  

でんでん太鼓もねだるなよ
蝶々とんぼも殺すなよ
露地の植木もちぎるなよ
近所の子供も泣かすなよ
行燈障子も舐め切るな

 

何を言うても解りゃせん
誰ぞの狐の子じゃものと
人に笑われそしられて
母が名前を呼びだすな
この後成人したならば

 

論語大学四書五経
連歌俳諧詩をつくり
一事や二事と深めつつ
世間の人に見られても
ほんに良い子じゃはつめじゃと

 

なんぼ狐の腹から出たとて
種は保名の種じゃもの
あとのしつけは母様と
皆人々にほめられな
母は陰にて喜ぶぞえ

 

母はそなたに別れても
母はそなたの影にそい
行末永う守るぞえ
とは言うもののふり捨てて
なんとこれにかえりゃりょう

 

とは言うもののふり捨てて
なんとこれにかえりゃりょう
離れがたないこち寄れと
ひざに抱き上げ抱きしめ
これのういかに童子丸

 

そちも乳房の飲みおさめ
たんと飲みゃえのう童子丸
母は信太へ帰るぞえ
母は信太へ帰りても
悲しいことが三つある
保名様ともそなたとも

 

呼んでとめての妻と子を
抱いて寝るよな睦言も
夕べの添寝は今日限り
母が信太へ帰りても
残るひとつの安じには

 

お乳が無くてこの童子
何とて母を忘りょうぞ
忘れがたなきうち思い
今は一つの安じには
人間と契りをこめしものなれば

 

狐仲間へ交じられず
母は信太の暮れ狐
身のやりどこもないわいな
なんとしょうぞえ童子よと
あわれなりける次第なり

 

さて皆様にもどなたにも
あまり長いも座の障り
これはこの座の段の切れ

 

この葛の葉子別れは、戦時中の農村で必ずリクエストされたそうです。夫や子を戦争にとられた女たちが、この唄を聴いて思い切り泣いたのでした。

 

●戦後次々と瞽女が姿を消していく中、残った親方杉本キクエの三人の座も昭和39年、東京オリンピックの年の秋に最後の旅を終えました。昭和45年には国の重要無形文化財に指定。85歳で亡くなったとき、「唄の文句を忘れてしまった。もう生きているかいがない」というのが最後の言葉だったそうです。