きょうは憲法が施行されたという日本にとって大事な記念日。ところが、おかしなことに、首相をはじめ現閣僚、与党にとっては記念日ではない。彼らにとっては「押し付け憲法」なのだ。変えたくて変えたくてたまらない憲法なんだ。
この憲法の成り立ちをいつも振り返ることはとても大事だ。
幾千万人のアジアの人々、世界の人々の犠牲の上に、非戦、軍事力放棄のこの憲法が施行されたことを心に深くかみしめたいと思う。
その犠牲を生み出した大きな原因が日本の側にあったことに思いを致せば、憲法を「押し付けられた」とは到底言えないはずである。
そもそも、「戦争放棄、国民主権、基本的人権」という理念は、「押し付けられる」という言葉にそぐわない。なぜなら、人類がめざすべき理想そのものだからだ。おのれの引き起こした惨禍を顧みて、これからはどんな困難障壁があっても、人類の理想をめざせと、世界から選ばれた国民なのだ。
理想を「押し付けられた」といって憤る人にとって、これらの理想は実現に値する理念ではないらしい。
だけど国民にとっては、これらの理念によって、日本人は戦死せずにすんでいるし(戦争に協力をしたことを忘れてはいない)、国民は主権者としての地位にあるし、基本的人権を守ることを行政府に要求することができるのだ。臣民として特定の誰かにかしずくことを要求されることもない。
誰にとっての憲法か。
改憲を主導しているのは明らかに政府与党であるが、それ自体が権力の暴走であると私は思う。
暴走であることは、改憲のハードルを低くすることから手をつけようとしていることでも明らかだ。国会総議員の過半数で改憲発議可能ということは、「ねじれ国会」でない限り、どんな与党でも発議できるということだ。これじゃあ、とてもじゃないが、国民が権力を縛るなんてことはできなくなってしまう。
国民の意思を問う機会が増えるという主張もあるが、国民投票に成立要件はない。少ない投票率で、しかも49㌫の反対が51%の賛成で通る、なんてこともありえる。そんな条件で仮に自民党草案のような「国民を縛る」「戦争あり」の憲法が国民の上に君臨する可能性を考えると、空恐ろしい。
日本が歴史的に犯した罪を罪と認められない人たちが、改憲を叫ぶ。「押し付けられた」というなら、サンフランシスコ条約はどうだったんだ! 日米安保条約はどうなんだ! 外国の基地がなぜ日本国土にのさばっているんだ! そう叫びたい人たちは、沖縄ばかりではなく、たくさんいるはずだ。
改憲を叫ぶ人たちの「愛国」や「伝統」とは、誰のための、どういうときの、どんな「愛国」や「伝統」なのか。国民を思って発せられた言葉か? いや、これこそ「押し付け」の何者でもないだろう。
コメントをお書きください
クララ (月曜日, 27 5月 2013 13:36)
>「押し付けられた」というなら、サンフランシスコ条約はどうだったんだ! 日米安保条約はどうなんだ! 外国の基地がなぜ日本国土にのさばっているんだ!
まさにそのとおりだと思います。
九条と日米安保は車の両輪です。
九条と日米安保、両者は補完関係にある。
九条があって、真の独立は可能なのでしょうか?
護憲を叫ぶ方々は、いつもそこから逃げている。
だから、支持が広がらないんですよ。